遊 民

現在の都市は高度経済成長以来急激な発展をとげ、商業・経済・文化・情報の中心として拡大を続けてきた。モーターリゼーションが進み道路が押し広げられ、経済性優先のビルが建ち並ぶ。人々の時間の観念は車と同じぐらいの速さで流れていき、景色など見えない。見えるのは目の前にあるお金と幸せの幻影だけだ。都会に暮らす何百万の人々は資本主義社会の枠組みにはめられ、互い何一つ共通することがないかのごとく平行線の上を歩きつづけ、恐ろしいまでの無関心と個々人の孤立化の中で生きている。

  このような社会や時間から逃走して、自分の時間で歩まなければならない。 その時初めて様々な景色が見えてくるに違いない。何に強制されるのでもなく外出して、まるで右や左に曲がるだけで、もう本質的に詩的行為となるかのように自分のインスピレーションに従う。頭を完全に空にして、何も邪魔されず気づまりなしに自由に思念を巡らすことが、唯一自分が十全に自分であり自分の時間なのである。

  このような人々をベンヤミンはフラヌール「遊民」と呼んだ。パリという近代都市空間を徘徊し自らの生の曲率をつくってきたサティ、ロンドンの雑踏の中で人を観察し自分の小説の中の登場人物に生を与えてきたディケンズ、江戸という町を彷徨いながら自分の詩をつくってきた一茶、その他様々な芸術家や詩人の大部分が偉大で勤勉で実り豊かな遊民であった。

  彼らが一番仕事に没頭しているのは彼らが一番仕事が暇そうに見える時のことが多い。無為によって得るものが労働によって得るものよりも価値があるという考えが、その他の様々な想念と並んで遊歩には潜んでいる。遊民の見開いた目、そばだてた耳は群集が見にやってくるものとは全く別のものをさがしているのだ。遊民はこのように彷徨うことによって研究しているのである。

  現在の非人間的な再開発や車に我々の土地を奪われる前に、遊民が歩き得る空間としての都市を取り戻さなければならない。イスタンブールのバザールやカトマンズのインドラチョークでは人々は活気に満ちいきいきとしている。喧噪の中ではあるが各人がそれぞれのスピードで歩くことが可能で、一日中歩いていても飽きない。遊歩することにより常識に疑念を持ち、違う何かを模索し発見することが今一番必要なのではないか。そうしないと人の波に呑み込まれ、突き飛ばされ、投げ出されて、資本主義社会という巨大な海に呑み込まれてしまうだろう。

参考文献:「住むための都市」ジョナサン・ラバン 晶文社
「パサージュ論ー・」ヴァルター・ベンヤミン 岩波書店