創ることを忘れた大人たちへ

現代の社会においてものや情報があふれ、その情報をいかにして取り入れるかが現代人の必須の課題であるかのように報じられている。情報の乏しい時代は何かを行う時は、まず自分で考えることから始まった。しかし現代では何かを行う時には情報を集めることから始まり、その中から一番適切なものを選択して行動するというパターンになっている。すべての行為においてマニュアル本や how to物の本が存在する。そのため自分で考えるという行為は薄れつつある。情報を集めて選択するだけで精一杯で、自分で考えることまで手がまわらない。

  ものを選んで「買う」ということには人々はとても成熟してきた。様々な情報を見て何が良くて何が悪いかを調べ、それがどこにいけばいくらで手に入るかを見つけだす。しかしその反面ものを「創る」という行為はできなくなってきているのではないか。あくまで情報の選択だけで終始して、自分で考えて自分で創り出すことはできなくなっている。いや、ものがあふれているこの時代、その必要すらなくなってきているのかもしれない。すべてが与えられたものの中で行動し、誰もその外側に出ていこうとは考えもしないのである。

 では人々のものを選ぶ基準はなんであろうか。まず第一に視覚から得られる情報である。人間は五つの感覚を持ち合わせているが、言葉で言い表せない客観的な判断基準よりも、はっきりと目に見える視覚により価値判断をしているのがほとんどである。視覚にたよるテレビ人間がすぐに結果を求めるのと同じく、人々は最初から結果がわかっていないと怖い。元来創造するということは時間と手間が非常にかかるもので、その経過においてどんどん変わっていくものである。しかし最初から結果を求めるということは創造するという行為を放棄しているようなものである。

  そして第二にはものの金額である。これも唯一数字として直接的に表されるからである。ものの価値を判断する時、自分の目でわからない人はそのものについている値段で良いものかどうか判断する。つまりお金と交換にどれだけのものが手にはいるかという等価交換的思考が根本にある。視覚的に表されていないものにはお金をを出すことはできない。同じお金を出すにしても創造的行為がそれ以上の価値を伴う場合もあるが、見えないものにお金を払うリスクは誰も負わない。旅行においてもこれだけのお金で、どこにいけてどんなホテルに泊まれるかわかっていないと旅には出られない。結局その人の思考の中でしか行動できず、それを越える体験を得られる可能性はまるでない。海の向こうに何かがあっても、先が見えなければ誰も船を漕ぎだそうとはしないのである。恐れずに一歩踏み出すことによって、新たな道を発見するチャンスがあるかもしれないのに・・・・。

  このように多くの現代の人々は目に見えるものにしか価値を認められない。目に見えないもの(風や光や触り心地や雰囲気など)の価値は評価できないのである。お金の使いみちにしても車や家や洋服や宝石など目に見えるものに投資してきた。逆に知識や経験を高めるために自分や他人に投資するような、目に見えないものにお金を使える人はどれだけいるだろうか。昔から様々な芸術家は目に見えないものを目に見えるものとするために多くの労力を費やしてきた。大切なものはいつの時点でも決して目に見えない・・・・・。ものがあふれ情報があふれ、一見人々の暮らしは良くなってきているが、それを選択していくだけで人生は忙しく過ぎていき、それだけで人生は終わってしまうのではないか。自分の人生を自分で創りだす前に・・・・・。

(旭硝子ガラスプラザに掲載)